以前幸せとはお金や交友関係などに対する自分の期待をどれだけ満たしているかだということを書きました。そのためには自分の期待を正確に理解する必要があると。
これはつまり自分が欲しいもの、欲しい感情を追い求めるということでもあります。
このことはある程度間違っていないとは思っています。しかし、世の中には違った形の幸せというものがあるのかもしれません。
渇愛が人を苦しくする
少し長いですがサピエンス全史から引用します
仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、 不快な感情を苦痛と考えるという。
その結果、自分の感情に非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験する ことを渇愛し、苦痛を避けるようになる。
(中略)
だが仏教によれば、そこには問題があるという。私たちの感情は、海の波の ように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎにすぎない。
五分前に喜びや人生 の意義を感じていても、今はそうした感情は消え去り、悲しくなって意気消沈 しているかもしれない。
だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。
だが、仮にそれに成功したとしても、ただちに一からやり直さなければなら ず、自分の苦労に対する永続的な報いはけっして得られない。
ユヴァル・ノア・ハラリ. サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 (Kindle の位置No.3577-3585). 河出書房新社. Kindle 版.
人が苦しむのは求めるが故。主観的な期待を追い求めることは幸せに通じるはずです。しかし苦しみにもつながっているのかもしれません。
たとえば、タバコを吸いたくないのに吸わずにはいられない依存症にある意味似ているのかもしれません。
ではどうすればいいのかでしょうか。
感情を味わうけれども固執しない
感情に固執してはいけないならば感情を排除しなくてはいけないのでしょうか。わたしは違うと思います。
感情を味わう。でも固執しない。
感情への評価を変えるのです。
感情=私ではありません。
「I am angry」 ではなく 「I feel angry」にするのです。7つの習慣にあるように刺激と反応の間をつくるといってもいいでしょう。
じゃあどうすれば「I feel angry」と考えられるのか。
その一つの方法にわたしは日記があると考えています。
日記を書いていると「感情は本当にすぐにうつろいゆくものだ」と実感できるものがある。
さっきまでイライラしていたものが、すぐにうれしい気持ちに変わったり。あるいは幸せな気持ちが、いつのまにか憂鬱になっていたり。
他にも瞑想するという方法もあります。わたしも夜に5分程度しているだけですが、目をつぶって呼吸を10回数えることも簡単にできないほど人間の心、感情は移ろいやすいものなのだと実感できます。
「幸せ離れ」する
自分の期待が満たされた時の感情を味わう。しかし、それに固執しない。
それがある意味悟りなのかもしれないなんて思います。ある意味「子離れ」的なものなのかもしれません。
いままで自分のことのように感じてきた「感情」という子供を独り立ちさせるときのように見守るのです。
そして幸せな感情を味わえる時が来たら十分味わいましょう。それは子供が孫を連れて実家に帰ってきた時のようなものです。
でもいつか必ず帰る時が来ます。そこにいくばくかの寂しさがあったとしても子供を実家に帰さないようにすがる親はいないでしょう。
いつかまた来てくれるよう思いながら別れを告げるはずです。
そんな感情との付き合い方がもしできれば、一番なのかなと思います。まぁ煩悩まみれの私にはこんな境地はほど遠そうですが(笑)
感情を味わうけど固執しない。これはある意味メタ認知の極みなのではないかなんて思います。
簡単には実行できるようなものではないでしょうが、心の片隅に置いておきたい考え方です。
終わりに
サピエンス全史を読んで、幸せについてもう少し考えを深めてみたいと思い、今回の記事を書きました。
ネットの片隅に置いておこうと思います。
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