幸せだと「思った」としても幸せを「感じていない」こともある

いまこの本を読んでいます。

その中でこんな一節がありました。

数週間ほど前、 私は古くから親しくしている友人と食事に出かけた。 彼女はマスコミ関係の一流企業に勤めているのだが、 その夜は自分がいかに仕事で惨めな思いをしているかを延々と語っていた。 上司や同僚への不満、 通勤の辛さ……。

そして食事が終わるころ、 彼女はまったく皮肉とは取れない口調でこう言った。「 もちろん私はこの会社が大好きよ」

ポールドーラン. 幸せな選択、不幸な選択──行動科学で最高の人生をデザインする (早川書房) (Kindle の位置No.350-353). . Kindle 版.

この女性の中ではこのことは矛盾していないのです。

日々幸せを経験していなくても、マスコミ関係の一流企業に勤めているから幸せなのだと思うことはできます。

「マスコミ関係の一流企業に勤めている」というところのみにフォーカスすれば自分は幸せであると考えられるのです。

たとえ日々の勤務で幸せを感じていなくてもです。

このことを著者は生活満足度をスナップ写真のようにとらえると言っています。そのうえでこのように述べています。

全般的な生活満足度のスナップ写真的な捉え方はやめて、 日々の感情にまっすぐ焦点を合わせるようにするべきなのだ。

ポールドーラン. 幸せな選択、不幸な選択──行動科学で最高の人生をデザインする (早川書房) (Kindle の位置No.389-390). . Kindle 版.

ただ人間の性質的に効率よく簡単に物事を評価しようとします。

すべての物事を総合的に多角的に評価していたらいくら時間があっても足りません。

しかし自分の生活の満足度や幸せについては時には総合的に多角的に評価することは大事だと思います。

そしてそうした総合的な評価の方法として日記もしくは大きくいって記録を書くことはその日一日をスナップのような一場面ではなく、動画のように見せてくれます。

それは物事を一部分だけでなく、総合的に多角的に評価するための手がかりになるはずです。