本を読んでいてこんな言葉があった。
“なぜ記録なんかにこだわるのかって?真実は僕たちを自由にするからだ。”
『ブロックチェーン・レボリューション』(ドン・タプスコット, アレックス・タプスコット, 高橋 璃子 著) より、http://a.co/emVUC5k
真実=記録として考えてみたい。記録が僕たちを自由にする。それはどういうことだろうか。
自由とは?
まず自由とは何か。
じゆう【自由】
(名・形動)[文]ナリ
①他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。
大辞林より
平たく言えば自由とは強制されないで自分に従っているということだと思う。
記録でぼくたちは自由を受け入れる
では記録で私たちを自由になるのだろうか。私なりに解釈すれば「過去の自分が行ったことが本当に自分によるものだと記録は信じさせる」ということだと思う。
そこで考えたのは自分のしたことの不確かさだ。
例えば20年前のことを思い出してみて欲しい。高校生時代の恋の思い出でもいい。
部活に汗を流した思い出でもいい。
わたしは自分がそれをしていたことを覚えている。
でも信じられないような思いもある。
「あんなことやってたのか」といま考えるとなぜやっていたのかよくわからないこともときどきシャワー中に思い出す。
覚えていても信じられない。もし覚えてなかったら信じられるかわからない。信じたくないのかもしれない。
でも記録があったらどうだろうか。写真があったらどうだろうか。
きっとしぶしぶながらも信じるに違いない。受け入れるといってもいい。
つまりはそういうことだ。記録があることで過去の自分と今の自分との繋がりを信じられる。
だから記録は私たちを自由にする。
記録でぼくたちは自由になる
それにどんな意味があるのか?
ここまで自分がやってきたことが信じられること。ここまで自分が進んできた道は意識的にであれ、無意識的にであれ、たとえ環境に左右されたのであれ、わたしが判断したことだということ。
今のわたしと過去のわたしはつながっているということ。それを受け入れられること。
もちろん見たくない現実もある。わたしにだって何個も振り返りたくない過去がある。
何年かたってその過去を見て「あぁこんなこともあったな」とまた封をする記憶もある。
別にすべての出来事を自分の判断だから受け入れろということではないと思う。
ただすべてがつながって、ここまで来たのだと信じられること。だから自分が何かを始めなくてはきっと始まらないのだということ。
現実は厳しい。でもきっとやさしくも美しくもあるはずだと信じたい。
受け入れることで挫折を乗り越えられると聞いたことがある。
記録することで過去を受け入れられる日もくるかもしれない。
いい一日も悪い一日もある。
でもそんな一日一日を記録することが、きっと僕たちを自由にする。