『父と息子のスキンケア』を読んだ。タイトルだけだと分からないが、ハヤカワ新書である。

妻の視点から、夫が息子のスキンケアを始めたのをきっかけに自分も始めていくなかで、「じゃあなんでなの?」というのを簡単にまとめた新書で、さっくり読める本である。

洗顔や日焼け止めの男性利用率の話なども出てくる。自分ももう少しスキンケアをやったほうがいいのかということで、とりあえず初めてアイクリームというものを買ってみた。

まぁそんな事情は置いておこう。

そして、ちょうど並行して映画『サブスタンス』を観た。

若いころはスターだったエリザベスも年老いていき、今はエクササイズ番組一個を持つだけになっている。しかし、その番組も年齢を理由に降板させられ、そんななか出会った若返りの薬(とりあえずこう呼んでおく)であるサブスタンスに手を出してしまう…

という映画なのだが、まぁなんというか、個人的な感想としては「なんか気持ち悪い、エビの食べ方ひどいな。いやいや、痛そう!やめて!そんな風に見せる必要ある!? それにしても食べ方がひどいな」みたいな感想メモが書いてある映画である。

こういうのが苦手じゃない人は映画をぜひ観て、同じ体験をしてほしいなぁと思ってしまうわけではあるのですが。

この映画の中でまず見えるのが、主人公の老いに対する忌避である。あるいは、居場所を失うことに対する恐怖であろうか。

映画を観る限り、エリザベスには居場所がなかった。

いや、豪華なマンションの一室を持っているし、肉体的な居場所はある。

しかし、することがないと、いることができないと考えていたのではないかと思ってしまう。 することがベースとなってしまっている。

『父と息子のスキンケア』の前提は、ざっくり言えば「ケアはいいものだ」である。 できる人から、自分自身へのケアを始めよう。 息子といっしょという免罪符を使いながらでもいいから、洗面所に化粧水を置いてみよう。そういう温度感の本だ。

ケアによって、健康、元気、若さを保とうというわけだ。

わたしもアイクリームを買ってみたわけで、その意味では本の射程どおりに動いている。 やったほうがいいことは、たしかにやったほうがいい。

ただ、並行して『サブスタンス』を観ていると、同じ「ケア」が別の顔を見せてくる。

エリザベスが手を出したサブスタンスは、極端な自己ケアだ。若さを取り戻す。番組に戻る。身体によって評価される。 ケアというより、ケアが土台となったあとの話に近い。

やったほうがいいことが、やらねばならないことへ滑り、その土台から落ちないように体を削っていく。 そもそもこれは「ケア」と言えるのだろうか。

土台を、「する」ことや「できる」ことの交換で手に入れるのは、とてもリスキーな気がしてしまう。

わたしの視聴メモには、グロテスクさに対する感想が並んでいる。 しかし、そのグロテスクさは老いることと壁一枚隔てたところにあるのではないかという気がする。

程度の差はあれ、「老いた自身に対してそんな感想を持たれるぐらいならサブスタンスに手を出す」と言われたら、分かる気もしてしまう。

だから、そんな感想に左右されない土台、居場所が必要になるのだろう。

しかし、どうやったらそんな居場所が手に入るのだろうか?それとも、そんな場所はないのだろうか? どこまでが「する」ことや「できる」ことに含まれるのか。

でも「ケア」があることで「する」ことができることもある。 結局はバランスというところに落ち着くのだろうか。

「いる」と「する」のシーソーを漕いでいく。

そんなことを考えた今日この頃である。

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