2026年03月31日(火)の日記
『暇と退屈の倫理学』において、「本来性なき疎外」という言葉が出てくる。 疎外されているということを考えるとき、そこには疎外されていない本来の状態や環境があると考えてしまうが、本来というものを考えることなく、疎外というものを考えることもできるということだと理解している。
ここでいう本来という言葉は正解とも言い換えられないかと思っていて、間違いだと感じても、正解がない場合だってあるのではないかということだ。
「間違いなく正解」はあるが、「正解なく間違い」だってあるのではないだろうか。